山の頂から下りてくる冷たい風が木々の梢を山吹色に変え始めたというのに烏丸 紅矢(からすま こうや)は一人、汗まみれになって人の入らぬ深い森の中を歩いていた。

二週間ほど前のこと。
この山の麓にあるキャンプ場を流れる川に獣に食いちぎられたと思わしき異形の者の『手』が流れついたからだ。

異様に固く厚い皮膚。
動物の毛のような剛毛。
そして太く節くれ立った指に鋭く尖った凶暴な爪。
どう猛な野獣にしか備わっていないはずのそれらをそろえた『手』は、しかし、どう見ても人間の『手』にしか見えなかった。
それだけではない。
その熊でも一撃で殴り殺せそうな剛腕の薬指には、まるで婚約指輪でもあるかのように豪華な宝石のついた指輪がはまっていたのだった。

この奇妙な事件はとある雑誌により世間の知る所となり、『現代の一条戻り橋事件』として大きくとり上げられる事になった。

その後、警察がこの謎の『手』をDNA分析にかけて調べた結果、この手の持ち主は1月前に行方不明になっていたとある資産家の妻のものだと判明した。 この資産家の妻は1月前、この山の近くのゴルフ場に知り合いと遊びに来ていたが一人でトイレに行くと言って仲間と別れそのまま行方不明になっていたのだった。

警察は夫人の死因を熊か野犬によるものと断定したが、夫人の腕がなぜかくも奇妙な「剛腕」となったのかの説明はできなかった。 謎は残ったが、DNAの鑑定が出たことで訳の分からない事件の幕を引きにかかったのである。 だが、夫人の夫は当然警察のその結論に納得できなかった。
自分の妻が化け物だとは信じたくないのは当たり前である。それで夫は妻の死を別の角度から立証する為に保険会社の 下請けである興信所に頼み、妻の遺体の他の部分の捜索を依頼したのである。

かくして、「めんどくせぇ。お前が行ってこい」という所長の温かい声援を受けて興信所就職二年目の駆け出し探偵である烏丸紅矢は深い森の中をさまよっている。
――7時間も。

既に陽は大分西に傾き、つるべ落としと言われる速さで山の稜線に近づきつつある。 このままではあと何時間もせぬうちに山は漆黒の闇の中に沈むだろう。 しかし、紅矢は取るべき道も、帰るべき方角も見いだせないまま下生えが行く手を遮る山中をうろつき回る事しか出来なかった。

―――と、その時。
疲労と空腹に意識をもうろうとさせていた紅矢の耳に微かな声が飛び込んできた。
幻聴かもしれない。
あえて儚い希望を抱かぬよう、しかしわき起こる押さえきれない期待に背中を押されるようにして歩を速めた紅矢の耳に今度こそはっきりとした声が聞こえてきた。 「若い女の子の声だ。……それも二人分」
若い女性がいるなら人里もそんなに遠くないはず。
これで助かった―――と、勢いよく踏み込んで行った藪の先、紅矢はいきなり足場を失った。

「あっ」と思った次の瞬間。
紅矢の体は勢いよく水にたたきつけられ、空気を失った肺にしこたま水を吸い込んだ。
空腹、疲労、そして打撲に窒息。
水からはい上がろうとしてもがく紅矢の消えゆく意識に最後に飛び込んできたのは天女のような美しい裸体をさらして驚く二人の美少女の姿だった。


「あっ、お母さん。気がつかれたわ」

気がついてまず始めに感じたのは、よく陽に当てて干した布団のふかふかほわほわな温かさと、干し草のようなお日様の匂いだった。 次に檜の板を張った天井とそれを支える檜の柱が目に入り、その柱にそって視線を下ろすと心配そうに自分を見下ろして座る三人の巫女装束の女性たちがそこにいた。

「どこか痛むところはありませんか?」

呆然と三人を見ている紅矢におかっぱ頭の巫女装束の少女、鷺宮 沙生(さぎのみや すなお)が尋ねた。

「いや……別に……君たちが俺を?」

「はい、お姉ちゃんと二人して運んだんですけど、すっごく重くて何回も下に落としちゃったんです。たんこぶとか出来てなくて本当によかったぁ」

と、沙生の隣に座る金髪の巫女少女、姫織(ひおり)がひまわりの様に微笑んて言った。

その笑顔に釣られて思わず笑みを返すと、最後の一人、二人の母親である鷺宮ステラが紅矢に深々と頭を下げて言った。

「ご無事で何よりです。突然ですが、貴方様にはこの二人のうちどちらかを娶っていただかなければなりません」

どこからどう見ても外人そのものの容貌のステラが流暢な日本語でそう語るのにも驚きながら紅矢は訳が分からず二人を見る。

紅矢と視線と合わせると微笑みながらもどこか影のある表情で俯く沙生。 ちらちらと紅矢に視線を送りながらも紅矢の視線と合うと顔を真っ赤にして頭から蒸気を噴きだして顔を伏せる姫織。

二人の生まれた鷺宮家は千年以上続く神聖な鷺宮神社の神主の家系であり、鷺宮神社のある曲木村の宗主の家系でもあるという。 そしてその鷺宮の娘は生涯、家族と伴侶になるもの以外にその肌を許すべからずという掟があるのだという。

何者かにちぎられた不可解な『手』
そしてその『手』の落ちていた山の奥深くにひっそりと存在する古い古い因習に縛られた小さな山村。
その村を支配する鷺宮家の二人の巫女と結婚。

二人との出会いは猟奇事件を解決しに来たはずの紅矢の運命を予想もしなかった方へと押し流して行くのだった………
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